裁判所に入ると、民事訴訟課の受付の胥吏(しょり)は爪楊枝を口にくわえて、
机に肘をついていた。
定年ももう間近かであるにちがいない。屈託のない表情には、まだ若さが残っ
ていたけれども、私が地方裁判所検事局検事であったころにも、同じ場所に坐っ
ていた人物だった。召喚状を提示する間に、横の通路を、なにかの裁判の傍聴を
するらしい学生の一団が場慣れた足どりで階段のほうへ歩いて行った。菊の紋章
のとりさられた、正面の空虚な壁龕にちらりと視線を走らせながら。
受付の胥吏は、私の顔を見てなにかを思い出しかけたらしく、薄笑いして硝子
越しの彼方で立ちあがった。玄関に停車した警察の拘留車のほうに視線をそらせ
た私の視界に、それでも、召喚状と私の顔を不安げに見較べる老廷丁の表情が映
った。
「部屋はどこかね。」
「ああ、あなたは・・・・・・。」
「どこかね。」
受付窓から距離を置いていた私の前を、坊主頭の未決囚が警官にひかれてのろ
のろと歩んでいった。弁護士会のバッジをつけた若い弁護士が黒カバンを脇に、
入れかわりに出てゆく。玄関の円庭のヒマラヤ杉は、永遠に変わらぬ影を狭い芝
生の上におとしていた。裁判所前に開業する代書人の看板はおおむね変わってい
た。毎日見ていても、正確にその一々を覚えていたわけではない。しかし、大道
路を距てていても、遠方が不思議とよく見えるようになった遠視の目に、それら
が元の名前でないことだけはあきらかだった。
「二階中央の廻廊を左におまがりになりますと、もと予審室だった小部屋がござ
います。二十号室です。」
もう慢性化し、誰にむかうものとも知れぬ目標なき怒りを抑えようとして、な
おしばらく私は玄関口につっ立っていた。
(同書45ページより)