あなたが見つけた
物語の中の司法書士
Shihoshoshi in novels
|Entry number1|Entry number2|Entry
number3|Entry number4|Entry
number5|Entry number6|Entry
number7|Entry number8|Entry
number9|
[Entry number 001]
写真は本文と関係がありません。
紹介者
琵琶湖のなまず
著者
松本清張(まつもとせいちょう)
題名
黒革の手帖(くろかわのてちょう)(上)(下)
出版社
新潮社
内容
長年勤めた銀行をや退め、転身のための資金を、元子は銀行の架空名義預金口座から「無断借用」することにした。準備期間中の秘密な悦び。偸みの愉しみ。入行以来愛のかけらも示してくれなかった行員たちへの心理的報復。そして、最後に武器の黒革の手帖を使った時、相手が見せた狼狽に接した爽快さ・・・・・・。勝利を祝し、自分の店を”カルネ”と名付けたが、その理由は誰も知らない−−−。(同書上巻「帯紙」より)
登場場面
錯誤による登記の抹消。−−そんなことが世にあるのだろうか。
土地の所有権は法務局への登記によって法的に保護され、保証されて
いる。その移転登記も法律の下に行われている。一分の隙もない理詰め
な法律で鎧われている登記の移転に、「錯誤」などという個人的な初歩
的なミスが入りこむ可能性はないし、またそれを法律が認めるはずもな
い。
元子はそう確信するものの、橋田の言葉や表情には嘘と思わせない真
剣なものがあった。橋田が一時逃れに出鱈目を云ったかもしれないと考
える一方、本当かもしれないという不安が逼ってくる。それが事実でな
ければ、彼の口から「君の貪欲なガリガリ亡者根性に引導を渡す」とい
った罵りは出てこないだろうと思う。が、一方では、それも土地を取ら
れる彼の精いっぱいの悪態ととれないことはない。
半信半疑の中で、あれこれと想いをめぐらせた。一刻も早く登記簿を
見たいという焦燥と、眼で確めるのが怕(こわ)いようなおそれとで、
二十分のタクシーの中に居る自分が自分でない気がした。
法務局港出張所の石段を駆け上った。
登記簿閲覧申込書を出された係員が、息をはずませてカウンターの前
に立っている元子を怪訝そうに見つめた。顔も蒼くなっていたのだった。
出された登記簿を開いた。
所在 港区赤坂四丁目四拾六番地。
地番 壱七六参八番地。
地目 宅地。
地積 壱百九拾八u四弐
事項欄 所有権移転 昭和五拾四年四月拾五日。原因 昭和五拾
四年四月拾五日売買
所有者 品川区荏原八丁目弐五八番地 橋田常雄
この事項欄が朱線で抹消されて、次のように書きこまれていた。
事項欄 五番所有権抹消 昭和五拾四年五月拾八日。原因 錯誤。
眼の前が茫と霞んできた。瞳に灼きついて残ったのは、この登記簿の
上に引かれた×の朱色線であった。
橋田の言葉は嘘ではなかった。法律で保証された土地が、法律によっ
て「錯誤」が認められ、その抹消を改めて保証されているのである。日
付も、橋田の云うとおり十日前になっている。
こういうことがどうして許されるのだろうか。
顔をあげたが、係員は向うに離れて行って外来者と話しこんでいた。
ほかの係は電話をしていた。だれもかまってくれそうになかった。
力なくドアを押して外に出ると石段を下りた。低い石段なのに、足も
とがよろよろして転げ落ちそうだった。
道路に沿って「司法書士」の看板を掲げた小さな事務所がならんでい
た。その一軒に入った。客はなかった。
顔色の悪い代書人が法律書を立てならべた机の前で元子を迎えた。
「教えていただきたいことがあるんです」
元子はすぐに云った。
「土地の移転登記の件ですが、錯誤による抹消というのは、どういうこ
とでしょうか?」
代書人は、血走った眼の婦人客に少しおどろいたようだったが、法務
局の近所に司法書士の事務所を開いていれば事情ある客を迎えるのは常
のこと、この女客もその一人だと思ってか、かすかな笑みでうなずいた。
「不動産登記法にはね、手続きの仕方はともかく、錯誤による抹消の根
拠について触れた部分があるわけではありません。しかし、民法の第九
十五条に「錯誤」という項があるんですよ」
司法書士は教えた。
「その九十五条というのはなんですか?」
「それはね、「意思表示ハ法律行為ノ要素ニ錯誤アリタルトキハ無効ト
ス」とあるんですよ。これが錯誤による登記、したがってその抹消、と
いう論拠のモトになっているんですな。要するに、登記するときにそも
そもマチガイがあったんだから、登記そのものも無かった、ということ
になるんですな。」
「土地の移転登記は、売買に依るものなのに、その売買が錯誤というの
は、どういうことですか?」
「タテマエとしてはそのとおりです。しかし、不動産の売買なら、当事
者の二人が「あれは錯誤でした」と云えばそれまでで、仕方がありませ
ん。法務局としては、当事者からそう申し立てられても、その「錯誤」
なる文字を登記簿に記載するわけにはゆかない。「抹消」ということに
なります。」
「大金が動く土地の売買に、どうして錯誤が起こるんですか」
「おっしゃるとおりです。これにはウラの事情があるんですよ。たとえ
ば親が所有地を子に譲る場合は、たいへんな額の贈与税がかかる。これ
におどろいて贈与を止めた場合、いったん子の名義に移転登記したもの
を、錯誤だということにして、抹消する。しかし、課税期にかからない
ようにしてその手続きをしたりすれば、これはあきらかに税金逃れの手
段です。が、ウラの事情が登記所に分かっていても、登記所で当事者に
あくまで錯誤だと云い張られると、登記所はどうすることもできないん
ですよ」
橋田はそれに眼をつけて、まんまと欺したのか。−−−
「それからね、錯誤による登記の抹消には、こんな脱税の方法にも利用
されています」
うつむいて唇を咬んでいる元子を、自分の話を真剣になって聴いてい
ると思ったか、顔色の悪い代書人はつづけた。
(同書下巻189ページ以下より)
